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秋保温泉とは

地名の由来

秋保という地名の由来には多くの諸説がある。
●平安時代にこの地を治めていた「藤原秋保」という人物にちなむという説。
●詩経あるいは易経にある「百寿ノ秋ヲ保ツ」という長寿を意味する言葉から来ているという説。
●秋保大滝は秋保の象徴であるが、アイヌ語では滝のことを「アボ」といいこれにちなむという説。
●秋の景色が特に優れているところからきたという説等。
秋保の名は古くから知られており、「古今和歌集」や「新古今和歌集」等にも「秋保の里」とうたわれている。

秋保郷は、奥羽山脈に源ととする名取川とその流れに沿って貫通する古道(二口街道)を主体に構成され、 山々に囲まれた河岸平野と谷の上流の厳しい自然条件と相待った袋小路的要素を備え、 有史以来独自の歴史と風土を保ちながら今日に至っている。

「日本三御湯」秋保温泉

はるか古墳時代より、「名取の御湯」と称され「日本三御湯」のひとつとして全国的にも知られてきた秋保温泉。
秋保温泉の歴史は古く、古墳時代(531〜570年)の頃には、第29第欽明天皇秋保の湯で皮膚病の一種を癒やしたと伝えられ、このとき「名取の御湯」の称号を賜ったとされます。

以後、秋保温泉は皇室の御料温泉の一つとして位置づけられ、別所温泉(信濃御湯)、野沢温泉(犬養御湯)と共に「日本三御湯」と称されるようになりました。「名取の御湯」は、「拾遺集」、「大和物語」などにも詠われています。伊達政宗公も秋保の湯を愛し、伊達家の入湯場として代々大切に守られてきました。泉質は塩化土類ブローム弱食塩泉、泉温45℃で泉量も豊富な秋保の名湯を、ごゆるりとお楽しみください。

佐勘露天風呂「河原の湯」

古来秋保・・・

人間が生活を始めた歴史は今から三万年以前、秋保郷においては旧石器時代からはじまり、 湯元細野原遺跡がその痕跡を物語っている。以後、縄文及び弥生という原始民族が生活・土着したといわれている。 遺跡の総数は46箇所を超え、人々は山あいのわずかな土地を耕作し、大自然の中で狩猟採取をしながら、生活を営んでいた。

弥生式小集落は、水田農業という安定した食料調達方法を獲得するとともに、人口の増加をもたらし、 集落の長たる「王」を生み、巨大な墓を象徴する次の古墳時代へと歴史を重ねていく。 仙台市遠見塚古墳の存在はこの頃のものとして想像され、仙台平野に統一された大きな集団があっと推測される。 しかし、秋保郷にはこのような墳墓は発見れていない。集落発達には困難を極めことが考えられ、 この時代名取川沿いに依然として弥生式小集落が点在するのみのさみしい化界の地だったことが推測される。

やがて、中央(近畿地方)に大和政権が樹立するとともに、東北地方経営のための拠点として多賀城が設置される。この頃秋保郷は、多賀国府の近郊の集落という意味合いをもっていたほか、この時期に編纂された物語・歌集から「名取の御湯」という奥州の名所であった事実が推測され、 つまり秋保温泉は、多賀国府に派遣されてくる国府官人たちの保養・遊楽の地として栄え、 その名が遠く中央(大和)にも知られていたと考えられている。 秋保郷は東北の首都たる多賀国府の繁栄とともに、温泉の湧き出る湯元を中心小集落が形成されはじめたと思われ、 湯元以外には人は住んではいたであろうが依然として化界の地あったらしく、二口街道を背骨として名取川の上流まで集落ができ、 人々の生活が営まれるようになるまでにはその後数世紀を要したといわれている。この間、坂上田村麻呂や慈覚大師といった歴史的人物の来郷をきっかけに建立されたといわれる寺社や遺跡も多く、 仙台・山形間の主要街道の郷として、次の在郷小領主を始まりとした武士の時代へと変遷していく。

秋保温泉とは

中央では、荘園領主から発達した武士の時代がはじまり、平氏の台頭そして滅亡の時を迎え、源氏による本格的武家政治がスタートする頃である。東北地方においては藤原氏の奥州統一と栄華の時代がやつてくる。しかし、平氏が壇ノ浦に滅びると源氏の矛先は奥州へと向けられ、ついにはその統治下に入ることになり、東北地方はいわゆる関東武士団を中心に地頭といわれる領主たちか定着し、やがて戦国武将として活躍していくことになる。

この頃秋保郷に・・・・秋保人としての本格的な人物の記録があらわれる。秋保氏という土着の地方小領主がそれであり、長く秋保郷を支配し中世からの政治・経済の基盤を作った一族の存在が知られている。発祥は、平家が壇ノ浦で源氏に敗れその一族が全国各地に散り隠れ住んだという平家落人伝説と結びつき、平清盛の子重盛「小松内府」をその祖とする平長基という人物が、当地に落ちのび秋保氏の祖となったといわれている。(秋保氏を名のるのは七代盛定以降)。秋保氏は、長袋の「楯山城」ののち「長館」を本城とし、二口街道の要所要所に館城を配置し敵の侵入に備え、戦国時代のころ伊達氏(政宗以前)に従属するとともに、馬場地区に馬場氏(上館を分館、のちに豊後館に新築移動)、境野・新川地区に境野氏(境野館)をそれぞれ分家して配置し、本家秋保氏と併せ秋保御三家とよばれるようになる。

伊達政宗が岩出山に本拠を移す頃には、外様家臣の格式から家格御一家としての格式を賜り、山形最上氏に対する二口峠の境界警備という重責を担うとともに、藩政に功績を挙げていた。しかし、その後関が原の合戦を機に江戸幕府が誕生すると、政宗は仙台へと城下を移し、秋保郷は仙台藩の直轄領となる。これに伴い秋保氏は、刈田郡小村崎村へと所替えを命じられ秋保をはなれるが、ほどなく帰郷を許され領主に戻っている。七代藩主伊達重村のときには、秋保氏23代目の秋保氏盛が奉行(家老に相当)に抜擢され、一躍千石を賜り秋保氏の名声を高めている。現在の「館」や「町」いう集落は、氏盛による秋保氏隆盛の象徴として垣間見ることができる。いすれにしても、中世以降明治維新までほぼ一貫して秋保を治めた秋保氏と秋保郷の結びつき極めて強く、町内の史跡・社寺・町並みなどその多くが秋保氏関連のものとなっている。

秋保温泉とは

近世江戸中期以降・・・

人々の暮らしは戦国時代のそれとは比べ物にならないほどの太平の世が到来し、境界警備の重責を担っていた秋保郷も平和でゆるやかな時間がなかれたに違いない。二口峠に近い野尻の集落には、境界警備のためにの御境目守足軽が配置されたが、山形越えの旅人や巡礼者などとその荷物を取り締まるだけで、武器を手に外敵の侵入を防ぐといった事件はなくなった。そのかわり仙台城下に近い名取川渓谷の風景や湯元の秋保温泉が人々の遊楽の場所として知られるようになり、人々の暮らしは、耕作と製炭経済を基幹産業としながらも、湯元・境野・長袋・馬場・野尻の宿場集落の上に、人や物が行き交い巡礼や温泉を目的とした旅人たちでにぎわいを見せていた。 幕末そして明治へと時代が変遷していくころ、仙台市内の資産家が、維新によって給金の支給を絶たれた野尻足軽集と協力しながら、私費を投じて二口峠の改修整備を行ない、 人や荷物を対象とした有料道路を開通させる。峠越えをより楽にさせたことは、人々を活気づかせ、二口街道と秋保郷は、往来する人馬で賑わいその最盛期を迎える。

しかし・・・まもなく秋保郷の歴史に大きな変化の時がやって来る。 明治15年の関山トンネル完成による車道(車馬)開通がそのきっかけである。車馬の往来が可能になったことは、それまで人馬のみ通行可能とした二口街道の物資輸送に大きな影響を与え、有史以来仙台・山形間の最短ルートとして栄えた秋保郷は、その主導権を関山街道に奪われ、宿場集落は急速に衰退の一途たどるにいたる。

以後、耕作と製炭(炭焼き)を中心とした山村集落としての経済基盤を作り上げながら戦後を向かえ、昭和30年に新川地区が旧宮城町に合併し、昭和42年に秋保町となったあと昭和63年には仙台市と合併し現在にいたっている。こうした中、人々は水稲を基幹産業としながらも秋保温泉や秋保大滝といった自然を主体とした観光産業を再構築し、その雄大な自然の中に更なる歴史を刻んでいる。今日多くの人々が四季の秋保郷を訪れ、雄大な自然にどっぷりつかりその素晴らしい環境を満喫している。まさに自然の宝庫といった景勝地も数多く散在し、都市近郊のやすらぎの場としても最も注目されている地域である。秋保郷は古代以来、山形へ通じる要害の地としての歴史や史跡を配置し、さらにはそれに伴う豊富な民族文化の伝承の地としての魅力もまた大いに自慢できるものである。